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< 前漢鏡 >
 前漢鏡  

   弥生時代の実年代は、中国で製作され日本に舶載された鏡によって知られる。 前漢(紀元前202年〜紀元8年)の武帝は 元封三年(紀元前108年)朝鮮半島に楽浪郡以下四郡を設置した。 これは前漢の出先機関で日本に漢代の文物が流入するのば この楽浪郡設置以後のこととされている。 中国前漢時代のいわゆる前漢鏡が日本において、甕棺墓(かめかんぼ)等 副葬されるのは、弥生時代中期後半代のことであり、これにより年代の上限がほぼ決定できる。  前漢鏡は、その出土状態 明らかなものは、福岡・佐賀両県で九遺跡、15基の埋葬遺構から出土している(第17図及び 第1表)。 更に、画径15cm以上の大型鏡になると少なく五遺跡、六基の甕棺墓(かめかんぼ)から出土するのみで℃ある。  「三雲遺跡」、「須玖岡本遺跡」の甕棺墓(かめかんぼ)については、前述したようにそれぞれの平野部における「王墓」と目されている。  飯塚市「立岩遺跡」10号甕棺墓(かめかんぼ)からも画径157m以上の前漢鏡6面と中細形鋼矛、鉄戈(か)各一口等を出土している。  この被葬者は、この地で生産される石包丁生産による利権を一手に掌握した嘉穂地方の「王墓」と考えられている。 二の他「峯遺跡」、 佐賀県「二塚山遺跡」て各一面ずつが出土している。 これらの被葬者も「王墓」に次ぐ地位のものとして地域における共同体の 盟主的存在であった。 「峯遺跡」10号甕棺墓(かめかんぼ)には二面の前漢鏡が副葬されていた。 一面は、内行花文「清白」鏡で、 画径172cmである。 他は、内行花文「日光」鏡で、画径6.6cmの大きさである。 また、昭和元年には前述したように、 別の墓域に属する甕棺墓(かめかんぼ)から小型の内行花文「昭明」鏡一面と鉄戈(か)か出土している。

 甘木市平塚の「栗山遺跡」では明治十七年,画径9.6cmの内行花文「昭明」鏡、鉄戈(か)、貝製の釧が出土していろが、 甕棺墓(かめかんぼ)からの出土の可能性が大きいという。  一帯は、佐田川と小石原川とに挟まれた台地上にあり、その縁辺部には 随所に遺跡がみられる。 この時期朝倉平野域では、「栗山遺跡」周辺と「峯遺跡」周辺は相対持する二大拠占勢力であったと考えられる。

 鉄戈(か)

この鉄製の武器は、現在までに14遺跡から19例(第18図)が出土している。 その分布範囲をみると、福岡、佐賀、長埼にわたるが、 福岡県が12遺跡14例と最も多い。 さらに、春日市から朝倉平野北半の地域にかけて7遺跡9例と極端に集中している。  その出土例は、夜須町の東小田「七板遺跡」での竪穴式住居跡からの他は全て墓地からの出土で、時期的には、 弥生時代中期後半に中心があり、 一部後期初頭に及ぶ。 北部九州では弥生時代中期中ごろ以降石器が減少し、代わって鉄製品が 普及してくるが、この鉄戈(か)も国内で生産されたものと考えられる。鉄戈(か)は、小田富士雄氏によりその形態状の差違から 「短鋒」(長さ25cm未満)、「中鋒」(長さ25〜35cm)、「長鋒」(長さ35〜50cm)の三型式に分類されていろ。 全長23.2cmの 「須玖岡本」例は「短鋒型式」の古式のものである。 鉄戈(か)も青銅武器と同様に長大化の一途をたどり、「立岩遺跡」 35五号甕棺墓(かめかんぼ)出土例は、全長49.6cmを測り類例中最長である。  ここに至ってはもはや実戦用の武器ではなく、支配者のステータスシンボルとしての祭器であろう。  「峯遺跡」10号甕棺墓(かめかんぼ)では鉄戈(か)が箱外に副葬されていた。 覆い口式甕棺接合部の直上に切先を東に向けて水平に 埋秘されていた。 全長41.7cm、関部19.3cmである。 湾曲した関部には木質が残存し柄に着装していたことが明らかである。  柄に着装された鉄戈(か)は棺内に納めることができず、棺外に副葬されたものと考えられる。  10号甕棺墓(かめかんぼ)の被葬者はこの地域としては稀有のガラス壁片円板二個、前漢鏡を二面、武器としては鉄戈(か)、鉄剣 各一口を保有していた。 しかしながら、青銅製武器は保有できず代番としての鉄製武器であったといえる。  この時期の類例として福岡市早良区の「吉武樋渡遣跡」の墳丘墓がある。 その規模は、東西23〜24m、南北24〜25、高さ2.0〜2.5m である。 ここでは溝による区画はなく、墳丘下に、甕棺墓(かめかんぼ)27墓以上、木棺墓一墓、箱式石棺墓一墓を擁する。  時期は、甕棺墓(かめかんぼ)が弥生時代中期後半〜同末である。 このうち甕棺墓(かめかんぼ)六墓と木棺墓から、 前漢鏡一面、銅剣三口、素環頭大刀一口、素環頭刀子一口、青銅製十字形把頭飾一個などの副葬品を出土した。 宝器類の出土は、 量として多いが、 一等抜きん出たものがなく、佐賀県「吉野ヶ里遺跡」(弥生時代中期前半)の墳丘墓と同様のあり方を示している。  これら両者は、「峯遺跡」一号墳丘墓と若干様相を異にするが、特定階層のための集団墓地と考えられよう。  以上のことから、東小田「峯遺跡」の二号墳丘墓は、10号甕棺墓(かめかんぼ)の被葬者に統率された血縁的あるいは地縁的紐帯で 結ばれた一農業共同体の集団墓地と見ることができ、従って「峯遺跡」を中心として一国を想定させうる。 それは、『前漢書地理志』に みる百余国の一つであったものと考えられる。 十号甕棺墓(かめかんぼ)の被葬者の支配する領域は、独立丘陵城山(130.6m)の北、 草場川以北、宝満州以東のほぼ現在の夜須町一帯と考えたい。 さらに、それは北部九州甕棺墓(かめかんぼ)(分布圏)社会において、 「三雲遺跡」,「須玖岡本遺跡」の王墓を頂点とした政治的構造に組み込まれたものであったことだろう。  次の集落へ  東小田「峯遺跡」へ戻る  夜須町史へ戻る  夜須町情報へ戻る