福岡藩の農村支配政
検地は前述のように、単に領内の農地を測量して生産高を把握するだげでなく、土地人民に関す策る従来の関係を清算し、藩主自らが完全にそれを掌握するためのものでもあった。 領内のすべての田畑は一筆ごとに調査して、年貢の基本台帳をつくり、この帳簿に登録された者のみを本百姓とすることで、土着勢力の中間搾取を排除し、その勢力に従属していた小農民を解放して本百姓に位置づげ、これを藩主が直接統制していく新たた農村支配機構の確立にあったのである。
福岡藩では当初、検地で掌握した田畑を蔵入地と給地とし、蔵入地は代官が、給地はそれぞれの給人が藩の法>
令の枠内で独自の支配を行っていた。
慶長十七年(1612)長政は、この給地・蔵入地という二元的支配制度の藩主による一元化をはかり、各郡に一人ずつ、その郡に知行を持つ大身に命じて蔵入地・給地を越えて全体の支配に当らせた。 これを郡方預りと呼んでいたが、実際の行政は郡奉行が支配し、その指揮下に代官・下代・取立代官が配置され、代官以下は郷村に在地して直接、年貢や夫役の徴集にあたった。
この間農村での階層分断が図られ、有力な地侍は召し抱えて藩の組織に吸収し、土着の勢力には扶持を与えて諸役を免除し、農民身分の村役人に任命して、農村支配組織末端として行政を掌らせた。 郡ごとに15〜30前後の村を統轄する触口(後に大庄屋と改称)、村ごとに任命して村政にあたらせた庄屋等の大部分の出自はこれであった。
庄屋の下には組頭が置かれ、更に下部組織として、10人前後をまとめて組をつくらせ、組頭取を任命して年貢・夫役の負担者である本百姓の統制にあたらせた。 これら農民階層の末端には、土地を持たない水呑百姓や、隷農的な地位に置かれていた名子・荒仕子・下人・日雇などの階層があった。
農村支配組織の変遷
福岡藩の藩政の混乱や財政の窮迫化にともなって、農村の支配組織は幾度も変遷を繰り返してきた。
藩政初期から寛文期(1661〜1672)には、二名の郡奉行と二名の代官頭が置かれ、代官頭の下に八名の免奉行、10名の郡代と23名の代官がつけられて諸郡を治めていた。 免奉行は免率(税率)の決定や川除普請等の農村基盤の整備、郡代は願・訴訟・夫役の徴集、代官は年貢の収納たどを担当した。
享保八年(1723)には、代官頭を廃止し、免奉行を郡代の兼役とするなどの機構の簡素化を図っているが、享保十七年(1732)に発生した享保の飢饉は、福岡にも大きな被害を与え、領内農村の全面的な荒廃をもたらしたため、藩では免奉行と郡代を再び分離して農村支配機構を整傭し、強力な支配力で荒廃した農村の復興に当たらせていった。
元文元年(1736)には、この農村支配機構は、郡奉行の下に免奉行.郡代.代官.無礼取立役等の諸役を並列に置くと改められている。 免奉行と郡代両老の人員はともに10名であり、無礼取立役は給地の年貢収納を担当していた。 郡奉行は4〜5名置かれ、免奉行以下の諾役を統轄していた。
| 郡分け | 石 高 | 村数(ケ村) | |
| 石斗升合勺才 | |||
| 遠賀・鞍手 | 115,585.18273 | 168 | |
| 夜須・御笠 | 102,005.23548 | 164 | |
| 那珂・席田 | |||
| 宗像・両粕屋 | 119,160.48494 | 146 | |
| 上座・下座 | 107,458.16056 | 172 | |
| 嘉麻・嘉波 | |||
| 怡土・志摩 | 107,629.23742 | 124 | |
| 早良 | |||
| 合 計 | 551,838.30113 | 774 | |
| 註 九州大学法学都所蔵文書「集書」より作成(福岡県史による) | |||
享保の飢饉の打撃から徐々に回復してきた寛保・寛延期(1741〜1750)になると、年貢の増徴が再び企画され、それにともなって農村支配機構も改革されていった。 寛保二年(1742)には免奉行と郡代が再び一体化して免奉行を廃止し、その権隈を郡代に吸収させている。 宝暦元年(1751)には今度は、代官と無礼取立役が廃止され、年貢の収納は、給地・蔵入地とも郡代の掌握に一兀化された。 この結果福岡藩での農村支配機構は、これ以後、郡代へ権隈が集中されて、これまでの並列的な支配形態から、藩主-郡奉行-郡代という一元的な形態をとるようになった。
寛保・寛延期に計られた農村支配機構の一兀化政策は、農村の動揺とともにこれ以後も推進され、宝暦十二年(1762)には郡代が廃止されて、第11表のように領内の郡を遠賀・鞍手、夜須・御笠・席田・那珂、宗像・両粕屋、上座・下座・嘉麻・嘉穂、恰土・志摩・早良の五つの地区に分け、五名の郡奉行を配置し、年頁収納・夫役徴集・川除普請・願訴訟の取り扱い等、農村支配の根幹にかかわる職務はすべて、郡奉行が直接担当するという支配形態を取り、支配権力の集中化で動揺する農村の支配を図っていった。
郡奉行
担当区で絶対的た支配権力を持つ郡奉行は、馬廻組(600〜1000石の知行敢)の中から任命され、職務給は350石で、他に役料80俵が支給された。 郡奉行は福岡の白分の屋敷内にそれぞれの役所を設けており、宅役所または内役所と呼んでいた。 郡奉行の下には、郡奉行何某の組として実務を担当する下役人が、各奉行ごとに20名ずつ付属しており、それぞれの宅役所において免帳方・御用方・御納方・当用方・普請方・養育方・宗旨方・記録方等の諾役を分担していた。 彼らの職務給は、直礼頭取と半礼頭取が4人扶持13石、無礼頭取が3人扶持13石、頭取格10石となっており、このほかに役料米あるいは苦労米が3俵から8俵与えられた。 平勤には職務給はなく、筆墨料銀30目が与えられ、その担当する役割りによって、1俵から5俵の苦労米が支給された。
域内には、各奉行の役宅所とは別に郡役所が置かれ、郡方役人の人事や、郡方全体にかかわる問題は、この郡役所において処理された。 郡役所には宅役所と同様に、実務を担当する下役人が、郡役所付として28名ほどつめており、御所務方・山方・当用方・給地方月番・記録方・牧仕組引切受持・産子養育方の諾役を分担していた。 この域内の郡役所は5名の奉行が月番で支配にあたった。
こうした支配組織も、農村の疲弊から発生した農村内都の諾矛盾の激化から、文政元年(1818)には大きく変化し、城内の郡役所と各奉行の宅役所を合同した統一役所を新たに大名町に置き、同年九月には郡奉行の下に2名の郡代を置いて郡奉行による直接支配機構は廃止された。 そして、これ以後郡奉行は領内全般にかかわる問題のみを処理し、直接の農村支配は、新たに任命された10名の郡代が、それまで郡奉行が支配していた五つの地区を郡奉行にかわって2人一組で支配するようになった。
その後、文政四年(1821)には郡奉行は町奉行・浦奉行と一体となって三奉行と称するようになり、天保六年(1835)には郡代が再び廃止されて旧に復し、同十二年(1841)には、また郡代が設げられるなど、農村の動揺とともに、支配組織も短期問にめまぐるしく改編され、安政四年(1857)には郡代は、農村に在住するようになった。
福岡藩領の村役人
福岡藩の検地によって、武士身分として藩組織に入るか、農民身分として残るかの二者択一を迫まられた領内の地侍等の土着勢力のうち、農民身分を選択した者のほとんどは、郡奉行の下役の下で村政を掌どる村役人として位置づげられていった。
このようた郡奉行の下役の下に置かれた農民身分の村役人には、大庄屋(触)・庄屋・組頭等があり、朝倉.甘木地域での触の数は、上座郡が二触、下座郡と夜須郡が一触で、夜須郡では朝日村の平山家が代々大庄屋を勤めている。
当初、大庄屋は任命を受げると世襲的に勤めていたが、後期になると大庄屋の没落等もあり、一代限りの大庄屋や入大庄屋が増え、行政官的色彩も漸次強まっていった。
| 村高 | 元文4年11月 | 宝暦13年2月 | |
| 200石 | 15俵 | 17俵 | |
| 201-500石 | 21 | ||
| 501-1,000 | 18 | 25 | |
| 1001-1,500 | 21 | 29 | |
| 1,501-2,000 | 24 | 33 | |
| 2,001- | 27 | 37 | |
| 大庄屋 | 50 | 100 | |
藩がこれらの村役人に給した役料は、その担当村の石高に応じて、第12表のように定めていた。 大庄屋が執務する役場は、大庄屋の屋敷内に置かれ、執務する内容は時期によって多少の相異はあるものの、管轄区域内の庄屋を支配し、法令の伝達、年貢・夫役の割当て、上納の指図、願・訴訟の調整、他領の大庄屋との応接等の仕事を、納戸方(年貢の収納に関する仕事)・普請方(土木工事に関する仕事)・養育方(貧困者の生児救援の仕事)・才判方(願.訴訟に関する仕事)・示談方(境界紛争に関する仕事)の職務を分担した村役人を指揮統轄して処理していった。
庄屋は初中期には各村に一人ずつ置かれ、大庄屋の指図を受けて、宗旨改め(戸籍に関する仕事)・養育方・公役(藩の使役に関する仕事)・御納戸方等、その村にかかわるすべての仕事を庄屋の自宅で処理していった。 このうち納戸方の仕事にっいては、年貢が村単位で賦課(村請制)されていたので庄屋は、この年貢が賦課されると名寄帳により名請人(本百姓)に割り当てて集め、藩に納めた。 名寄帳とは、検地でつくった軸帳が、土地を基準として一筆ごとに記載していたために、それぞれの農民がどれだげの年貢を負担すればよいかの計算がややこしかったため、この軸帳をもとに名請人を中心にしてまとめ、名請人の年貢額が一目でわかるように整理した帳簿のことである。
しかし、後期になると一村一庄屋の原則が崩れ、一人の庄屋がいくっかの村の庄屋を掛時ちで勤めることが多くなった。 この傾向は時代が下るに従って著しくなり、一人で4〜5ヶ村の庄屋勤めも珍しくなくなった。 これは、有力農民の没落なども原因の一つではあったが、動揺する農村支配の強化策として福岡藩が、庄屋の行政官的色彩を強めるために、掛持ちや転勤を広範かつ組織的に実施していった結果でもあった。 秋月藩の庄屋が幕末まで原則として一村に一人ずつ置かれ、掛持ちや入庄屋は例外的であったのに比べると大きな違いである。
この庄屋の下には、村の大きさにより2〜5名の組頭を置いて庄屋の職務を補佐させた。 更に下部組織として、10人前後をまとめて組をつくらせ、組頭取を命じて組を構成し、年貢・夫役の負担義務者である本百姓に連帯責任を持たせて統制していった。 このほかに、山の口(藩林の監視)散使(庄屋を補佐し触状や廻状の村廻帳簿の整理)等の村役人を置いた。 朝倉・甘木地域特有の村役人としては、大川筋請持三庄屋があった。 これは福岡藩と久留米藩との国境である筑後川の問題について、久留米領の村役人との応接事務を担当するもので、上座・下座の両郡から三名の庄屋が選ばれて任命された。
庄屋の本務と委任事務
庄屋が取り扱った行政事務は、前述のように一、宗旨改め。二、養育方。三、御納戸方。四、公役。五、雑務で、このうち一、二が本務で三、四、五、は委任事務であった。
一、宗旨改め
宗旨帳(現在の戸籍簿に相当)村内すべての住人を戸別にその家族の人名・続柄・年齢・縁組その他の移動と宗門を明記して、毎年三月三日(節句)に郡奉行に提出し検閲を受けた。
人払帳の作製
毎年三月から翌年二月までの問の、村内戸口(戸数と人口)の変動を記録した。
血判帳の作製
血判帳には異教徒(切支丹)でない証として血判させた。 帳簿用紙に村内11歳以上の男女の人名を記入して血判させた。初判は酒一升、その他は銭10文の判賃を徴集し、これは庄屋の役得収入と認められていた。
寺請証の提出
何宗の何寺、何某と記入した宗旨判帳に、寺の証明(寺証拠)を副えて藩庁に提出した。
二、養育方
たび重たる棄子禁止の布令にもかかわらず、生活苦からの間引きや棄子は後を断たなかった。 棄子は拾い親に養育を命じたが、拾い親が貧困であれぱ、養育料として米五俵、粟三俵を庄屋を通して支給した。 また、貧困のために生児の養育困難な者に対しても詮議の上、米三俵、粟二俵を産児養育米として給与した。 更に生活困窮者に対しての米・粟各一俵の支給事務も庄屋の仕事であった。
三、納戸方
軸帳.畝引帳.徳割帳.名寄帳に記入整理し、免返上の願い出や上納の業務を処理した。
軸帳は村内の田畑.宅地等の反別、石高及び年貢高を記載した帳簿であり、畝引帳(土地台帳)は、村内の土地を地番順に整理記入した帳簿のことである。 また、徳割帳は、当年納入の年貢米の高を個人別に記入し、その村の年貢総高を表した帳簿で、田植後の6月1日に郡役所に提出し、郡役所ではこの帳簿によって、その年の年貢を決定していった。
上納米は藩の倉庫で庄屋が計量し、庄屋・組頭立会で倉庫に積み込んだ。 ただし、この米の津出し(朝倉・甘木地域では博多の大浜にある藩の倉庫に納入)は、大庄屋指図による高公役であった。
秋月藩の農村支配政策
寛永期(1624〜1643)の秋月藩では藩主長興が、直接免相定を出していることからも、農村の支配機構は、まだ十分には確立していなかったと思われている。 しかし、慶安期(1648〜1651)には、農村支配にかかわる役職として郡奉行と代官頭が置かれ、そのいずれもが馬廻組から任命されている。 享保年問(1728〜1735)期になると郡奉行は免奉行と改称され、免奉行二名と代官頭二名が置かれている。 免奉行の下には免方16名が置かれ、代官頭の下には代官付2名・代官頭付3名・代官催促人5名が附属していた。 免奉行と代官頭は互いに相談して農村の支配に当たったが、免奉行は主に年貢の決定を、代官頭は主に年貢の取り立てを担当していた。 しかし、享保十九年(1734)には免奉行の役号は再び郡奉行と改められている。
郡奉行は文化八年(1811)以前は、月番によって領内の支配に当たっていたが、この年の八月以降は、領内を嘉麻郡と夜須・下座の二地区に分げ、地区ごとに支配するように改めている。
文政元年(1818)に入ると秋月藩も、福岡藩の農村支配組織を導入して、大規模の改革を行った。 まず年貢取立方法がそれまでの代官取り立てから、大庄屋取り立てに改められ、これまで年貢を取り立てていた代官が廃止された。 また郡奉行手付の諸役も改編され、従来からの当用方、免帳方、山方、米銀方、川普請方、宗旨方、極印方のほかに、新たに免用方、山奉行、御納方、記録方、育子方等の諸役が置かれた。 免用方は福岡藩では郡奉行の補佐役として設けられ、馬廻組のうちから任命されていたが、秋月藩では免用方と山奉行を兼役とし「田畑山林の益」の拡大をはかる役とされていた。 御納方は、年貢の取り立てが大庄屋となったため、その統轄が任務となり、記録方は、以前は郡奉行が自ら記録を付けていたが、付げ落し等が多かったため、福岡藩にならって手付の者の中での年功の者がこれに当てられた。 郡奉行の手付は、直礼の者もいたが多くは三人扶持七石程度の半礼で、直礼の者もその格は陸士より下であった。 ただし、免用方・山奉行は馬廻組か組外かが任命された。 また、手付の者には文化元年の改編以前には役料米が支給されていなかったが、改編以後は全体で60俵ほどの役料米が支給されるようになった。
郡奉行は、普通は秋月の郡役所において領内の支配に当たっていたが、天保五年(1834)には嘉麻郡は千手村、下座・夜須郡は野町村に出張所が設けられ、秋月の郡役所とともに郡内を三つの地区に分げ、郡奉行がそれぞれの出張所に出向いて、直接農民を支配する仕組みが立てられた。
秋月藩の村役人
秋月藩でも福岡藩と同じように、領内をいくっかの地区に分け、各地区ごとにこれを統轄する大庄屋を置き、その下に各村ごとに庄屋を置いた。
大庄屋の管轄区域を秋月藩は組と呼び、大庄屋の居住する村の名前をとって組の名前とした。 一つの組は10〜20ヶ村からなり、組の数は時期により変動はあったが、普通は4〜6組であった。
組が変わると組に含まれる村も変化した。 文化三年(1820)の組の村割りを見てみると夜須・下座では、東西二つの組に分れ、栗田東組が江川・上秋月・下秋月・山見・田代・野鳥・長谷山・千手・甘水・櫓原・隈江・下淵・持丸・菩提寺・大塚・依井・弥永・桑曲・櫛木・三ケ山の20ヶ村。栗田西組が久光・栗田・森山・畑島・当所・中牟田・四三嶋・下高場・上高場・山隈・野町・高田・牛木の22ヶ村。 屋永組が屋形原・板屋・柿原・堤・牛鶴・屋永・小田・平塚・中寒水・草水・上浦・下浦・馬田・千代丸の14ヶ村となっていた。 この村割りは、これ以後幕末まで大庄屋が変っても変化していない。
大庄屋は、初中期までは世襲的に務めていたが、秋月藩でも後期になると一代限りの大庄屋や入大庄屋が増え、・行政官的色彩を強めていった。
大庄屋の職務内容は、福岡藩と基本的には同様であったが、文化十四年(1817)以後は、農村の支配機構改革の一環として大庄屋は、毎月10日と22日の2回、弁当持参で郡役所に出勤せねぱならなくなった。
また、大庄屋の屋敷内には、大庄屋会所が設げられ、組内の庄屋は月に2〜3回ずつ、この会所に出勤することとなった。
庄屋は村ごとに置かれ、原則として世襲であり、後期になると農村の変動によって没落する庄屋もあり、掛持ちや入庄屋が増えたが、これは福岡藩と異なり藩の政策によるものではなかった。
庄屋の下には、村の大きさによって2〜5名の組頭を置き、庄屋を補佐させた。
また、天明八年(1788)には、動揺する農村の取り締り強化のため、10人組が置かれ、10人組には頭取が置かれていたが、文政期には、家数が多過ぎて取締りが行き届きかねるとして、5人組に改めている。
このほかの村役人としては、散使や山の口等が置かれていたが、文政三年(1820)には山方の作法が改正されて、藩林の盗伐監視や保護の仕事は庄屋の受持ちとなり、山の口は廃止された。